煙をはずすとき
久しぶりに、終電を逃した。
恵比寿にいた。
正確にいうと久しぶりではないのだが、
女はいつでも今が初恋だというように、私にとって終電を逃すという行為はするたびに新しさを意味するものだった。
クラブに行って朝まで踊り狂う選択も決して悪くなかったが、 わざわざ渋谷か六本木にタクシーで移動するのも気が引けたし、何しろ踵の高い靴がそれをより妨げた。
ここは恵比寿だ。
バーなら困らない。
私は朝までどこかで飲む選択をした。
マティーニ。知的な愛。
必ず飲むカクテルだった。
格好つけすぎだとは思ったが、意味合いはともかく、酔いがとにかく早く回るのが好きで、バーではいつもマティーニを飲んでいた。
2杯飲んだあたりで酔いはすでに回っていた。
頭と裏腹に体は正直だ。
トイレに行くたびにフラフラしてしまうのを必死に隠し、私は煙草片手にひたすら飲み進めていた。
気づけば2時を回った頃だったと思う。
隣に一人の男が座った。
洒落たバーには似合わない、ヨレたポロシャツを着ていて、とっさに警戒する。
女が一人で飲んでいると声をかけられるのは日常茶飯事だ。
仕方がない。
せっかくなら真剣佑か城田優と飲みたかったが、仕方がない。
終電を逃す選択をしたのは自分だし、目を引くような格好をしているのは自分だ。
「終電、もうないの?」
生ビールを飲みながら心なしか嬉しそうに彼は聞いてきた。
「ないですよ笑 もうこんな時間だし。」
オリーブを口に含む。
大事なのは、慣れていると思わせること。
終電を逃した地方上京女子だと思われ舐められてはたまらない。食われる。
「君、若いよね、何歳?」
おいおいキャバクラじゃないんだから、と思いながらも「22です。」と正直に答える。嘘をつけるほど素面じゃない。
「若っ、俺の娘と同じくらいじゃん。」
娘がいるのか、と安心した。
結婚指輪はこういう時に役立つと思う。男が女を口説く時には、まず安心感を与えることが大事だ。この人は私に手を出してこない。そう思った女は一気に気を許す。
「そうなんですね!!そうかぁ、娘さんいるんだ。大学生?」
そうだよ。彼は嬉しそうに話し始めた。
娘がいること。息子もいること。自分は高卒だから子供には私大を出て欲しかったこと。
あぁなんだ、いいパパやってるんじゃん。
ヨレたシャツも途端に勲章に変わる。
大学のこと、進学のこと、将来の不安をひとしきり話したところで、少し間が出来た。彼の目線が私の手元に集中する。
「お前、なんで煙草吸ってんだよ。」
急にキレ気味に問いかけられて、なんなんだと思った。別にいいではないか。
さっきまで楽しく話していたのに。緩急激しすぎるだろ。
それに、煙は吸うも吐くも自由とくるりも言っている。
「別に。ダメですか?」
それにここはバーだし。わざわざ喫煙にお前の許可などいらないであろう。
「やめろよ。煙草。」
彼氏かよ。彼氏じゃないんだからほっといてくれよ。
急にめんどくさくなったな、と思い自分の中のスイッチを切り替える。
「別に私の自由じゃないですか?今時珍しいものでもないでしょう。」
マティーニはもうなくなっていた。酔いが回っていたのは重々承知だったが、格好がつかないのでお代わりを頼む。
「なんで吸ってんだよお前。」
彼は、相変わらず有り余る不機嫌を隠さずに私に突っかかってきた。
うわー、マジで急にめんどくさくなった。
どうしたどうした、さてはお主、酒癖が悪いタイプでござるな?
「まぁ色々あって。吸い始めるようになって。ぶっちゃけまだ二ヶ月もたってないんだけれどね。」
言い訳させてほしい。
酔っていた。
割と本気で、適当にあしらえないくらいには酔っていた。
前に好きだった人が、吸っていたんです。
ぽろっと口からでたその言葉の流れは、とめられなかった。
前好きだった人が、ずっと吸っていて。私といる時も、私と寝る前も、寝た後も。
吸っていて。
その匂いが忘れられなくて。だから、全く同じものを吸ってるの。
本当は吸うたびに気持ち悪くなっちゃうんだけれど、やめられないの。
きっとやめたら、忘れちゃうから。
忘れたくなかったこととか、忘れるべきなのに忘れられないこととか。
あぁ何を話している自分。こいつに話すべき話じゃない。余計拗れる。
わかっていた。わかっていたけれど、とめられなかった。
これ以外、吸ったことがないんです。
だって、意味がないから。他のもの吸ったって、彼にはなれないし、意味がないから。
私の話を聞いた後、
彼はふっと笑って、一言、言った。
それはお前、
お ま え じ ゃ な い じ ゃ ん。
後ろから急に鈍器で殴られたような衝撃が走った。
あぁ、と思った。
私は一瞬で、彼の、言葉の意味を理解した。理解してしまった。
それは、おまえじゃない。
彼は繰り返した。
「それはそいつが吸ってるんだろ。おまえの過去の、その男が吸っているだけだ。
だから、やめろよ。」
彼は言った。
さっきまでのおちゃらけた顔とは裏腹に、真剣な顔で。大人の、父親の顔で。
「それは、わたしじゃない。」
私も繰り返した。
私じゃないのかな。私じゃないのかもしれない。どこかでわかってはいたんだけれど。
吸いたきゃ吸えばいい。ぶっきらぼうに彼は言った。
でも、なんでそいつと同じものを吸うんだよ。吐き気を感じてまで、同じものを吸うなよ。吸いたいなら、おまえが吸え。
それを吸っているのはお前じゃない。
お前の好きだった男じゃないか。
マティーニは減らない。
なんでこいつは、そこまで、わかるんだ。
クラクラした。それはきっと、飲みすぎたマティーニと、なれない煙草のせいでもあったのかもしれないけれど。
私は、泣いていた。
ギョッとした顔でマスターに見られる。
見るな。さっきまで格好つけてカクテルを飲んでいたのが台無しだ。
そうだよ、悪いか。泣いているんだ、私は。
まるで、
飼い主に怒られた犬のように。
まるで、
父親に怒られた娘のように。
皮肉なものだ。私には父親がいなかった。
ずっと、誰かに怒ってほしかったの。
それは、友達や、女の人じゃ意味がなくて。
怒ることは、愛だから。
ずっと、父親に怒ってもらいたかった。
例えば自転車で車を傷つけたとき、ゲームでイカサマをしたとき、テストで悪い点をとったとき、門限に間に合わなかったとき。
そんなとき、ただ、怒ってくれるだけでよかった。
だって、怒ることは、愛、だから。
なんで、お前煙草吸ってるんだよって。
そんな奴は俺の娘じゃない。って。
怒って欲しかった。怒ってよ。怒れよ。
感情が止まらない。
自分の父親と目の前の冴えない男が重なる。
重なって、元に戻る。
彼は、違う。違うけれど、どこかの娘の父親なのだ。
そして、彼も、私をどこかの娘だとして、怒っている。
連絡先を交換したかった。
禁煙に成功したら、それを報告したかったのと、もしかしたらまたこの人が自分のことを叱ってくれるかもしれないという下心を含めて。
でも、「嫁にバレちゃうからさ」とはにかんで断って彼は、もう完全にわたしの手の届かないところにいた。
そういうところも、いいじゃない。好きよ。
いつだって私は、誰かに助けられて、生きている。
時に、予想していなかった出会いが、その人の人生を大きく変えてしまう。
だから東京は好きなのだ。
まだ出会っていないであろう人々が交差する街だから。
私の人生はきっとまだまだ変わると信じさせてくれるから。
そういえば、煙草を吸うきっかけになった彼と出会ったのも恵比寿のバーだったな。
お会計で。
震えた手でカードを渡す。
空はもう薄紅色に染まっていた。生ぬるい風が、頰を撫でる。
秋が、くる。私の春は、憂う間もなくとっくに過ぎたのだ。
超える間も、なく。
敬う間も、なく。
カバンに手を伸ばす。ためらいを許さず、私は。
空き箱を握りつぶした。
ー煙をはずすときー