アキさんという名の男
彼の名は、アキさんといった。
死神のような男だった。
出会った人全てを石にしてしまいそうなくらい綺麗な顔をしていて、183cmはあるだろう身長に黒いスーツがよく似合っていた。その日は雨が降っていて、新宿伊勢丹の前で黒い傘をさして佇んでいた姿は今でも忘れられない。絵になる、とはこういうことだと思った。
美しい人だった。
新宿三丁目に四季の路という通りがある。
あぁそうだ。私に新宿の、とりわけ三丁目という場所を教え込んだのはアキさんであった。
一番最初のデートで、四季の路にある京料理屋さんに連れていってもらった。
まだ21歳そこそこだった私は、なんて素敵な場所を知っているんだろう、と感動すると同時に、アキさんが京都出身だとわかって納得した。
私も海外に住んでいた頃は日本料理屋の場所だけは詳しかったものだ。
あっけからんとした京都弁が心地よかった。
「大抵のことはさ、どうでもいいんだよ」というのが彼の口癖で、
ドジっ子な私が遅刻したり、忘れ物をしたり、(余計な御世話であるのはわかっていたが)アキさんの仕事の悩みを心配したりすると、いつもそうやって言って笑っていた。
「ポイントを押さえておくんだよ。人生で、大事なポイントを。最低限これだけは絶対に譲れないという点を自分で決めておくんだ。そうしたら、それ以外は案外どうにかなるもんだよ。だから、君もそうやって生きな。」
アキさん、それいいね。私は頷いた。
アキさんのような綺麗な男が、なぜ私とこんなにも会ってくれるのかわからなかったが、
彼は飽きずに私と二週間に一回会っていた。
出会ってからもう何回季節を超えたのだろう。
「なんで私とこんなに会うの?飽きるでしょう」
いつだったかそう聞いた時、
「俺、君といるの好きなんだよね、あと俺、君の顔が好きやねん」
とさらっと言われた。
変わった男だな、と思った。
控えめに言っても私は決して美人じゃないし、どこにでもいる女子大生だ。アキさんの顔ならモデルと付き合っていてもおかしくないのに。
「私もアキさんといるのが好きだよ。」
ゆっくりと、心をこめて、本心で伝えた。
私も、アキさんといる、あの、なんとも言えない中途半端な空気が好きだった。
遊ぶネタは尽きなかった。
ビリヤードとダーツが得意というアキさんに、初めてバグースに連れて言ってもらった時、本当に楽しかった。
アキさんは何度も丁寧に私にビリヤードを教えてくれて、私は教えてくれるアキさんを失望させないように、本気で上手くなろうと必死で遊んだ。
3回目の勝負でアキさんに勝った時、死ぬほど嬉しかった。
嬉しすぎて、まるで女子高生のように飛び跳ねてアキさんに抱きついた。
この、飛び跳ねている、
21歳の、学生の、私を。
この瞬間、永遠にしようと思った
私の中でも、アキさんの中でも、永遠にしようと思った。
でも本当は知っていたよ。わざと負けてくれたこと。
君は才能あるなぁ。俺に勝つなんて。
笑いながら言ってくれるアキさんを見た時、泣きそうになった。
わざと負けてくれて、褒めてくれるだなんて、まるで父親のような愛情に崩れ落ちてしまいそうだった。
そういうところが好きだった。
そうだ、私はアキさんのそういうところが好きだったのだ。
彼はちょっと変わっているところもあって、
いわゆる、ザ、JAPAN的な変態でもあった。
私がハロウィンかなんかの前後に高校の時の制服を着て行ったら、えらく喜ばれたのを覚えている。
遠目から見ていたいと言って、私とアキさんの距離を前後に20m保ったまま新宿の地下通路を歩いたりもした。
「せっかく着ているのに、どうせなら近くで見てよ。」と笑いながら言ったら、「こういうのは遠くから見てる方がいいんだ。」と謎の理論を語られ、それもそれで面白くって悪い気はしなかった。
それに、そんな変わった性癖を言ってくれるくらい、アキさんが心を許してくれているのがわかって、なんだか嬉しくなったりもした。
ところで、私は毎日勝負下着をつけているのだが、これも彼から言われたことだった。
「いつ倒れてもいいように、いつ死んでもいいように。最後、人に見られる姿が気を抜いている不本意なものだったら死んでも死にきれないでしょ。」
21歳の女子大生からしたら、そんなことはどうでもよかったし、身近に死を感じたことなんてなかったけれど、そういうものなのか。と思って、アキさんに下着を選んでもらった。
それは毎シーズン続いていて、春も、夏も、秋も。
私たちは下着屋に行っては、まるでカップルのような顔をして、二人で真剣に選んだ。
私が、いつ死んでもいいように。
いつ誰に下着を見られてもいいように。
そんなこんなで、アキさんといることによって私はいろんなことを学んだ。
いろんなことを勉強できて、私は、彼と会うたびに、一歩ずつ大人になっていたように思える。
でも、
いつからだろう、
わかっていた。
これが永遠じゃないことなんて、
ちゃんと、きっちり、私は、わかっていた。わかっていたよ。
アキさんは、支払いにカードを使わない。
一度ふと見えてしまった財布の中身は、現金以外何一つとして入っていなかった。
suicaも無記名の物だった。
アキさんは、お店の予約を私の名字で予約する。
私は、アキさんの名字すら、知らなかったのだ。
怖かった。どうして今まで気づかなかったのだろう、
あんなに、私の前で笑ってくれているアキさんが、
あんなに楽しい時間を一緒に過ごしたアキさんが、
いろんな話をしたアキさんが。
本当はアキさんじゃないかもしれないだなんて。
何も知らない。私は、彼の、何も知らない。
そう気づいてからは早かった。
一方的に搾取されている気になった。
私だけが、アキさんに、全て吸い取られているような気持ちになった。
知りたかったわけじゃない。
別に、アキさんのことを端から端まで知りたかったわけじゃない。
アキさんと付き合いたかったわけでもない。
アキさんの家に行きたかったわけでもない。
ただ、私は、
彼と、対等になりたかっただけなのだ。
生まれとか、育ちとか、仕事とか、給与とか
そういうことじゃなくて、
私が彼のことを好きだったくらい、好きになって欲しかったとか
そういうことじゃなくて、
ただ、
私がアキさんを信頼していたのと同じくらい、
どうか、信頼して欲しかったのだ。
年収とか家とか、そんなことを知ったら私が態度を変える女だと思った?
名前で会社を知られるのが怖かった?何かに悪用するかと思った?
それとも、
刹那的じゃなく愛されてしまうと思った?
考えれば考えるほど、もう限界だと思った。
私だけが搾取されているような状態で、もう彼の笑顔を見られないと思った。
「好きな人ができたので、もう会えないです。」
嘘だ。そんな人いない。でも、こうするしかない。
お酒の力を借りて、深夜に勢いで送信した。そのまま間髪入れずブロック。そしてそのまま連絡先削除。
もう、二度と会えないように。もう、二度と、嘘を訂正できないように。
あぁあの時、酔った勢いで連絡先を消しておいて本当によかったと思う。
だって、ものすごく会いたいのだ。
未だに、ものすごく会いたいのだ。
アキさん、ビリヤード、やっぱり才能あった見たい。ここのところ負け知らずだよ。
アキさん、大学の友達にセーラー服を着ているところを見られたら年齢考えろって笑われちゃったよ。
アキさん、あれから下着はちゃんと自分で選ぶようになったよ。
アキさん、あの歌舞伎町の中華屋さん、もう一度行きたかったな。
話したいことは山積みで、宛名のない手紙も崩れるほど重なったけれど
私は、元気でいるよ。
心配事も少ないよ。
ただ、ひとつ、今も思い出すよ。
なんてことは、まるでないのだけれど。
-アキさんという名の男-