スワロフスキーのブレスレット
私は、物を物と思うことができない。
”モノ”に感情が乗ってしまうタイプである。
わかりやすく言うと、
元カレからもらったものは「捨てる」タイプであるし、
渋谷の特定の場所を歩くと思い出が深すぎて息が詰まる。
たとえ、その「モノ」とやらがどんなに自分の欲しかったものだったとしても、
嫌いな人から貰うのならば要らないと思ってしまう。
しかし不思議なもので、
私の周りには「ものはもの」と割り切れる子が非常に多い。
そもそも、この話を書きたくなったのは、さっき女友達とzoomでダラダラ話していた時に、「欲しい時計だったら好きでもない男から貰ったって全然嬉しいよ」と彼女が発言していたからであって、
それを言われた時に、そういえば他にも似たようなことを言っていた奴が何人かいたな、とふいに思い出した。
私には正直その感覚がさっぱりわからなかったけれど、
「自分だけが違う感覚」は、その原因を探したくなる。
ざっと記憶を呼び起こし、一体どこから「嫌な違和感」が出てきているのか考えたところ、
思い出した。
あれは14歳の夏だった。
当時海外に住みはじめて1週間もたっていなかったころ、毎晩のように現地の飲み屋に通っていた父が、何を思ったのか珍しく私にプレゼントをくれた。
「スワロフスキーのブレスレット」だった。
キラキラしたそれをもらった私はすごく嬉しくて、それがとても宝物のように感じた。
次の日には「Diorのグロス」をもらった。
ちょうど色付きリップ、やグロスにハマる年齢だったから、それがとても嬉しかったのを覚えている。
しかし、蓋を開けてみれば、その「父からのプレゼント」は、
毎晩父が足繁く通っていた夜店の”オネエちゃん”が、別の客からもらったプレゼントだった。
父と”オネエちゃん”はデキていて、
「なんかお客さんからいらないものもらっちゃったわ〜」という彼女に
「じゃあ俺の娘にあげるわ」といって貰ったものが「スワロとDior」だったわけである。
どこぞの知らないオッサンが、
知らないお姉さんにあげて、
そのお姉さんが、いらないと言った「ガラクタ」を、
宝物だなんて喜んでいた自分が、恥ずかしくて恥ずかしくて、「屈辱的」という言葉を身を以て学んだのはあの時だったかもしれない。
きっとあの時に染み付いた「屈辱」が今でも染み付いてしまっているので
「〇〇から貰ったんだけど君にあげるよ」は私にとって禁句である。
〇〇が要らないものは、私にとっても、きっと要らない。
もしくは、自分で手に入れる方がよっぽど気持ちが良い。
そして同時に、
「好きでもない人からもらう欲しいもの」など、私にはきっと存在しないと思う。
2020/5/14